ううっ…首が…首がいてえ……
らぽさんです。
先週から首を痛めています。
もともと首痛気味の身体なのですが、寝相が悪かったのか痛みが再発。
日常生活がすべておそるおそる慎重にならざるを得ません。
そろ~り そろ~り
元彌かよ
首に変な力が入らないよう日常生活を送るため、正直かなり不便です。
整形外科に行ってリハビリもし始め、最近になって少しだけ痛みが和らいできました。普通に痛みがないだけでもかなり嬉しい。
日常の有難みに慣れきってしまう自分
とまあ、こうして日常から少し外れた感じになるとふと「当たり前って、実は当たり前じゃない」って気づきますよね。ケガだったり、物を無くしたり、ケンカしたりとか。
ケガした時になって始めて健康に過ごせる有難みを知り、物を無くして初めて便利さに気づき、ケンカした時に初めて相手の思いを知り…
いつまでも初心というか、当たり前を当たり前に感じない新鮮さを持てるといいのだけれど。
子供の頃の幸せ
そういえば先日テレビでガシャポンの話題をやっていたんですが、それを見てなぜかカードダスを思い出しました。
昔はこれやるだけでかなり射幸心を射抜かれて幸せだったw
キラカードが出た瞬間の、脳内をドーパミンが駆け巡る感じ…
カードが出るところの次の厚みを確認しては、「次はキラの可能性が高い!」とか言ってましたね…
ガチャガチャ回して、裏返しのカードが出てきて急いでひっくり返して出てくるカードが何かを確かめて。キラだった時のあの高揚感。
あの時はそんなんだけでも十分幸せを感じていたはずなんですけどね。
今おんなじことやってももちろんそんなに満たされないのはなぜなのか。
よく言われるのが、色んな経験を積んでいけばいくほど幸せと思える閾値が上がってしまうからなんですかね。
閾値
① ある反応を起こさせるために加えなければならない物理量の最小値。
精選版 日本国語大辞典より引用
わかりやすい例で言えば、生ビールを最初に一口呑んだ時って一番おいしいですよね。その後、おいしいはおいしいけど、やっぱり最初の一口が一番おいしいと感じる。
それは、生ビールの味に慣れてしまうことで、おいしさの閾値がどんどん高まってしまうからだと思うのです。慣れれば慣れるほど、「おいしい」と思えるハードルが自分の中で上がってしまう。
いつだって生ビールの最初の一口のおいしさを味わうことができたら、どんなに幸せなことか。
それと同じように、日常で感じる幸せも当たり前になればなるほど、ハードルは上がってしまう。
当たり前を当たり前としなければ、もうちょっと日常に幸せを感じやすくなれると思う。
日本じゃない国に目を向ければ…
よく言われることだと思うんですが、そもそも日本に生まれただけでハイパー恵まれているという点がありますよね。
これも日本人からしたら当たり前なのかもしれませんが。
世界で起こっている紛争問題、どこの国や地域で起こっている?国と原因を一覧で見てみよう (gooddo.jp)
普通に食事ができ、普通に防犯も機能してて、正しい努力ができればそれなりに社会成功も可能ということを改めて考えてみると本当に恵まれている気がしてきました。
それを無意識に当たり前と感じてしまうのは、傲慢なのかもしれません。
当たり前を当たり前じゃないと謙虚に自覚し続けることができたら、どれだけ幸せなことか。
幸せの閾値を下げるには
良くも悪くも、仕事だったりで忙しい毎日を送っていると生活のパターンが一定化します。一定化すると毎日のルーティーンが当たり前となるため、逆にルーティーンに飽きて不平不満を抱くようになったりします。(僕のことです)
可能なら、こういう時はやっぱいつもと違う非日常に身を置きたくなる。海外旅行だったり、友人と話したりと。
コロナ禍の中、それもなかなか難しいのが辛いですね。逆に皆、どうやってストレスと付き合っているのだろうか。
話はそれましたが、自分の例で考えてみると、こうしてブログを自由にかたかた書けるネット環境や身の危険を感じない精神的余裕があるだけでも十分幸せな気がしてきましたw国によっては自由に書けないですからね。
共●党批判しちゃお
当たり前を当たり前に思わないよう、謙虚でいたいものですね。
健康も幸せも大切な人も、失って初めて気付くくらいなら、最初から謙虚に気付いていような。
首の痛み引いたら、ありがたく筋トレさせていただこうっと。
それではまた。
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