無職だった頃の話をしようか①~立志編

考えたこと

らぽさんです。

日々を生きていると、時々仕事で辛いことがあったりめげそうになったりすることがあります。

今も自分の力不足にうちのめされそうになったり、周囲と較べては嘆いて負のスパイラルということはしょっちゅうです。

ですが、そんなときは自分が無職だった頃を思い出したりします。

最終的にはその時の自分を思い描くと、「今は今で大変だけど、あの時と較べたら全然だな」と思い、また頑張れたりするんですよね。

皆さんにも、あの頃を思い出すと元気が出てくるという時期ってないですか?

実は僕、13年前くらいに無職だった頃が1年ほどありました。僕にとってはこの時期が今の自分につながっていて、ある意味大切な思い出だったりします。

時はだいぶ経ち、少し感慨深いくらいに思い出も醸成されてきたのでちょっと振り返ってみようと思います。

13年前の5月。

そこに僕はいました。

2008年に新卒入社するが…

僕は2008年に大学を卒業し、とある広告会社に新卒で入社しました。第一志望の会社ではありませんでしたが、当時の自分のやりたいことにある程度はフォーカスされている職種だったのでまあいいかという感じでした。

学生と社会人の境目ということで、社会人生活に慣れるのにかなり苦労しました。最低限の研修を終えた後はひたすらOJTという感じだったので、新しい仕事がリーダーから降ってくるたびに息の休まる暇がない…と思ってましたね。

ハードな日々を過ごしている2008年9月、かのリーマンショックが起きました。広告会社という性質もあり、真っ先に不景気になると削られるのが広告費ということもあって弊社は大打撃を食らいました。

そこで早速会社として対策をしなければならないということで、真っ先に人件費にメスが入りました。そう、新卒も含めて依願退職を募るという状況になったのです。

当時の自分はハードな業務の中で精神的にダメージを負っていたこともあって、依願退職で退職金割り増しでもらえるのと雇用保険で自己都合扱いにならないなら辞めてしまえという気持ちで依願退職に応じました。今振り返ると若かったこともあって安直的な判断だったかもしれないと思うこともあります。しかし後悔はしてないですし、本当にそれ以外の選択肢は取れなかったんじゃないかなと今でも思います。

そんなわけで入社して1年ぽっちで新卒入社した会社をドロップアウトし、晴れて無職生活となりました。

辞めた当時は先のことなんて考えておらず、とりあえずの今のこの状況から抜け出したいという気持ちしかなかったように思います。無意識かもしれませんが、新卒1年だし、少し休んだら仕事なんていくらでも見つかるだろうと思っていたのかもしれません。

待っていたのはヒャッホーな生活

まず会社を退職した翌日は超安眠できたことをいまだに覚えています。もう早起きしてあの辛い仕事に行かなくていいんだと思うと心がウキウキしながら布団に潜り込んでいましたね。

23歳の僕
23歳の僕

ヒャッホー~~~!!無職だ~~~!!

無職初日は、10時くらいまで寝てお母さんから「あんたいつまで寝てんのよ」とまるでお母さんのような小言を言われたことを今でも思い出します。

しばらくはこの気ままな生活を謳歌することになりました。都内に出かけたり、ギターを弾いたり、家でダラダラしたり。1年間という短期間とはいえ、社会の歯車として組み込まれていた閉塞感があったのかとても開放的な気持ちで自由時間を満喫していたと思います。

今当時を振り返ってびっくりしたのは、無職になった時にウルトラマラソン走ってたんですよね笑

この謎バイタリティも無職あるあるなのでしょう、きっと。無職前半に感じたあの謎の全能感は今でも恋しくなります…

こんな日々がずっと続くといいね。

そんな青春ラブコメでいかにもフラグを立ててしまいそうな思いを感じたことも多々です。

やっぱり自由に飽き、次に襲ってくるのは取り残されてる感

最初の1~2か月間はお金も多少残っていたこともあって、学生時代の友人と呑みにいったり、一緒に辞めた元同期達と呑みにいったりと楽しかった気がします。ですが1か月を過ぎてしまうと、よく言われることですが、飽きます。

惰眠を貪っていることもあってか、夜は早く寝ることができなくなり夜更かし。夜更かしすれば当然早起きなんてできるはずがなく、昼過ぎに起きる生活。

朝6時過ぎに父親が出勤するために駐車場から車を出していく音を、布団の中でぼんやりと聞く生活になっていきました。

この頃になってくると、最初の頃は幸せだったずっと布団で寝ていられるという感じももはや飽きていました。飽きるどころか、日々消化しきれないエネルギーがどんどん体内で腐っていく感じというか…

むしろ起きてもやることがないから仕方なく布団の中でダラダラするものだから、オフトゥンの魅力は当時なくなっていたように思います。

片や、依願退職に応じず会社で修羅の道を選んだ同期達は大変ながらもめきめきと社会人としてステップアップしていきます。大学の友人たちもそれぞれの会社で経験を積んでいき、一方自分は家でやることもなくゴロゴロしているような状態です。

当時、そう感じていたなら早速次の就職活動に取り掛かっているはずなのですが、当時の自分は就職活動ではなく、資格の勉強にシフトチェンジしていたようです。

何かというと、社会保険労務士の資格です。

明確には覚えていないのですが、多分、ブラックな環境にいたことで「ブラックな労働環境をなんとかしたい」と非常に安直な理由で社労士だ!という結論になったんだと思います。そして雇われるのではなく、自分で士業として活躍したいという気持ちも多少あったんじゃないかと。

今振り返ってみれば、単に働きたくなかったからそれの言い訳として資格勉強にシフトチェンジしたのか、本当によくわかりません。

そんなわけで、2か月程度で無職生活に飽き、社労士の資格を取るために勉強を始めました。

時間だけはあるものなので、その年の試験まで3か月切っていましたが何とかなるかなと勝手に思いながら。

近所の図書館の自習室で勉強に励む日々

思い立ったが吉日、資格予備校のLECで社労士講座を大金を支払って受講しました。それからは受講に行く日以外は、近所の図書館の自習室で勉強をする日々です。

朝、自習室に行きガリガリ勉強、昼は自宅に戻ってパスタ一袋を全部茹でてペペロンチーノソースかけて食べるような毎日。そう、少しでも節約するために、お昼も栄養よりも何よりもコスパしか考えていなかったんですよね。激太りしなかったのは不思議…

痴呆公務員
痴呆公務員

今振り返ると、毎日パスタ一袋食べるような生活でよく身体壊さなかったな

昼食べて、また自習室に行って勉強して夕方家に帰ってランニングして晩御飯食べて夜ふかしして寝るというサイクルに変わりました。

無職あるある
無職あるある

ランニングしがち

結局、消費しきれないエネルギーを昇華させるために自分をランニングとかに突き動かすんじゃないでしょうか。

この頃になると当時書いていたmixiの自分だけ闇日記を見返しても、少しづつ心境が変わって現状に対する焦りみたいなものが芽生え始めてきたように感じます。

8月23日というのは社労士試験の日です。

父親からのプレッシャーもあって、家の居心地も当然悪くなりつつあったんですよね。そりゃあ当たり前なのですが、息子が1年で会社辞めてその後就職活動もせずに家でダラダラしてたらいい気持ちはしません。(貯蓄の中から生活費は入れていましたが…)今でも当時の両親には心配をかけて申し訳なかったなと思っています。

そしてこの頃になると、日々何にお金を使ったか事細かにメモってたんですよね笑 まあ当然ですがお金も1年間で貯めた僅かな額と退職金数十万しかありません。だんだんとお金が無くなる恐怖も味わうようになっていきました。

とにもかくにも、目の前にやることがあると人間は頑張れるものです。

浪人生のようなスタイルで勉強することができたので、3か月でも「もしかしたら受かるかも?!」という手ごたえを感じ始めていました。

しかし同時に、「この試験が終わったら…」という未来のことを考えることも放棄していたのかもと今振り返ってみて感じます。

受かったらどうするのか、落ちたらどうするのか。

就職から逃れるために、現実逃避するためだけに勉強していたのでは?

よくわからないんですよね。

初めての社労士試験は見事に落ち、途方に暮れる

無職で時間だけはたっぷりあることもあって、勉強しまくって直前の模試では「もしかしたら受かるかも」というところまで行きました。

しかし、そう甘くはありませんでしたね。確か選択式で複数科目の足切りを食らって見事に落ちました。

足切りで落ちましたが、択一の点数は合格点を上回っていたということだけが救いだったような。

日記を見返すと、試験後は特に新しいアクションを起こすわけでもなくこれまでと同じような日々を送っていたようです。ただ社労士の勉強をしなくなったので、また有り余る時間をただただやりすごすだけ。

当時の日記はある意味生々しいですね。外部に公開している日記じゃなくて自分だけの忘備録だったから嘘偽りのない本音を書いているから今見返すとすごいなと思います。自分の心境の変化がありありと伝わるというか。

2009年9月16日の日記から抜粋

結局、社労士試験を受験した後はとりあえず就職しようと決意し、リクナビnextをはじめとした就職サイトを見る日々になりました。

興味のある分野の求人をとりあえず応募するものの、最初の1社目で失敗したこともあり次も失敗するのではというモヤモヤを抱えたままで就職活動したせいか、どこかで本腰を入れきれない自分がいました。

そんな中、1年ほどやっていた仕事経験が評価されてとあるところに内定をもらうことができました。ただ志望度はそんなに高くなかったのと「総務だからなんでもやってもらうよ」という面接時の話がどうも気にかかってたんですよね。更にグループ全体での謎の大運動会が毎年あるみたいな話を聞いて非体育会系な僕は内定承諾に不安を募らせていったのです。

悩んでいたところ、自分の求める条件に合致し、社風にも惹かれ本気で入社したいと思えるところを2社ほど見つけました。これは応募するしかありません。

そして内定をもらっていた会社へは「第一志望の会社があるので、そちらの選考を待ってもらってもいいでしょうか」という厚顔無恥な発言を繰り出し、見事に内定を取り消されました。

妥協してそこで働くのと、こっちで働きたいという気持ちを天秤にかけたら後者だったのでその判断は間違っていなかったと思います。

結局その2社とも落とされたんですけど苦笑

第一志望の企業2社とも、最終面接で同日に落とされることになり絶望する。

企業研究も行い、入りたい理由を整理して超絶ガチで備えました。

痴呆公務員
痴呆公務員

面接に向かう僕の後ろ姿に、Aerosmithの「I Don’t Want to Miss a Thing」を合わせたら全米で大ヒットしたかもしれません。

しかしこういう時は予定調和でダメなほうに大体転がります。

お祈りメールが来ました。しかも同日に!!!

無職生活が半年近く経っていて閉塞感を感じ始めていたことに加え、生活費が付きつつあったことも焦燥感を加速させていたのでしょう。この日ばかりはもう自分は社会復帰できずにこのまま子供部屋おじさんとして親のすねをかじりながら生きていくのかなと凹みました。

ガチで自分の部屋にこもって電気を消して泣いていました。

当時はこうして日記に吐き出さないと無理だったんだろうなと思う。

明けない夜はないっていうけど、この時ばかりは夜が明けても全く進んでいる感じのない平坦な毎日が延々と続いているようできつかったですね…

自分が無職でいる一方、同期や友人たちはそれぞれ社会で頑張っているわけですから。それに対し自分は…と比較しまくってはどんどんメンタルを追い込んでいってました。

そんな時に軽い脳梗塞で父が倒れました。

悪いことって続くもんですね。

幸いなことに大事には至らなかったのですが、これを機に仕事もせず自立できていない自分がすごい嫌になって改めて自分の今後を見つめなおさなきゃと思ったのです。

なんとなく目先のことだけで考えていた自分のこれからを、今一度どうすべきかと考え始めました。

そうして悩み続けて出した答えは、公務員試験を受けて公務員になるということでした。

今振り返っても社会の厳しさをわかっていない若造の短絡的な考えですが、当時自分がやりたかった仕事に落とされ続けて、「やりたい仕事以外は働きたくないわ!」と真面目に思っていたんですよね。それでも仕事をしなければ生活はできない。

それで逆にやりたいことがないのなら公務員でもいいのかなと思うようになったんですよね。ジョブローテあるし、それなりにワークライフバランスを保てるのかなと。

その考えが正しいかはさておき、こうして僕は新たに道を模索し始めました。

2009年の年の瀬のことでした。

後半に続く。

番外編 内定をもらった企業、実は今の嫁氏のグループ系列の会社だった笑

本文中に出てきた当時内定をもらった会社、実は続きがありました。

今の嫁とは当時以降に知り合うことになるのですが、当時付き合っていた際に僕のこの当時のことを軽く話すことがあったのです。その中で内定をもらったけど、結果として行かなかった旨を伝えました。

痴呆公務員
痴呆公務員

いや~悩んだんだけど、どうしてグループ全体の運動会というところに引っかかり…

嫁氏
嫁氏

それうちの系列やん

なんと当時嫁が働いていた会社と同じグループだったようです。そんな偶然もあるのですね。

もしそこに働くことを決めていたら、嫁とは運動会仕事を通じて知り合っていたのかも知りません。ただその場合、こうして結婚できていたかどうかはわからないのですが。

もしそうなっていた未来のパラレルワールドも少し気になったりします。

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